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琵琶は古代ペルシャのウードに始まる楽器で、ヨーロッパではスペイン、イタリーでギターに改良されます。中国では琵琶に改良されました。日本には雅楽の楽琵琶として入ります。管弦合奏にも用いられましたが、単独では朗詠のとき、区切りをつけるのに用いられました。これが一般庶民となりますと、楽琵琶を改良して持ち運び自由にし、主として目の不自由な坊様によって、仏前での法要の伴奏楽器に用いられたのです。醍醐天皇の第四皇子蝉丸がその始祖と仰がれています。大津の蝉丸神社、京都の四ノ宮は彼ら琵琶法師のメッカであります。二月・四月のお祭りには、総検校が配下の琵琶法師を率い、四ノ宮にある蝉丸を祭る河原で般若心経一万巻を上げ、終わって『平家物語』を全巻演奏していました。彼らの集まりを当道座と申しました。当道座の組織結成の功労者は、明石覚一と言われます。足利家の一門で明石を知行していたので、明石殿と言われていました。彼は、平家琵琶に秀で、遂に光厳・崇光二帝に請われて御前演奏をしましたが、感激された二帝は、皇室に伝わる、俗に雲居本と称する『平家物語』の清書本を賜り、「お前の一門でこれを伝えるがよい」とおっしゃった、と申します。
明石覚一は、この雲居本を基本テキストとして、『平家物語』の詞章を決定し、書写山円教寺の仏教音楽を範に求めて、『平家物語』を音楽の上でも完成しました。なかなかの人柄だったらしく、当道座の教授組織も定め、自らは京都清聚庵に住んで、総検校としてこれを支配したといいます。
高良大社の『平家物語』には、この明石覚一の奥書があるのです。雲居本そのままか、どうか、まことに興味のある写本ですが、『平家物語』の伝本中最も権威のあるテキストであることは間違いありません。彼がこの『平家物語』テキストを決定したのは、奥書によりますと、応安四年のことでした。齢七十を越え、既に死を覚悟した彼は、自らの死後、詞章のことで弟子たちが争うことを恐れて、このテキストを書かせ、愛弟子定一に譲るのだ、と言っております。
この素晴らしいテキストが、なぜ高良山にあるのか、まことに不思議と言えば不思議ですが、入手は江戸時代のことで、高良山の支配をしていた曼殊院門跡の上級支配者であった青蓮院門跡から、高良山座主の目代(代官)を勤め一山の在地勢力を代表していた厨家出身の欣浄院寂春という偉い坊様が、頂戴して来られたのです。
この高良山には、神籠石の中心になりますが、表参道の馬蹄石の所に、四ノ宮があり、百塔という、目が不自由な坊様で琵琶を演奏するのが得意な坊様たちが住んでいました。この百塔は、蝉丸がいたという縁起のあるお寺で、四ノ宮とともに高良山では、たいへん由緒のあるお寺であります。寂春は晩年、この百塔に隠棲した、と伝えられます。ちなみに、この百塔の坊様たちは、当道座に所属していませんでしたので、何かにつけて差別があり、困った高良山では、何とかしてこれを保護し、かつは彼らの力を借りることによって、高良山の仏教をいっそう興すべく考え、青蓮院門跡・曼殊院門跡もまたそれを激励鼓舞すべく、この貴重な『平家物語』のテキストを下賜したものか、と思われます。
高良山の周辺に平家の落人の伝説が多いのは、この百塔の坊様やこれとよく連れ立って歩いていたという下級の巫女さんたちの活動の跡かと思われます。 |